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ウラジーミル・ヤロスラヴィチ(、1020年 - 1052年10月4日)は、ヤロスラフ1世と、スウェーデン王オーロフの娘インゲゲルド(ru)との間の子である。ノヴゴロド公:1034年 - 1052年。15世紀にブラゴヴェルヌィー(ru)として列聖された。 ==生涯== ウラジーミルは1020年生まれであるが、ノヴゴロドの年代記の1つには1030年生、複数の年代記には1034年生とする記述もある。ノヴゴロド公国の統治において、軍司令官(ヴォエヴォダ)のヴィシャタと、主教のルカ(ru)の補佐を得た。1042年、南フィンランドのヤミ族への遠征を行った。この遠征では多くの馬が疫病で死んだ。1043年にはハーラル3世と共にビザンツ帝国へ遠征した。このルーシとビザンツの戦争(ru)は失敗に終わったが〔マッツ.G.ラーション『悲劇のヴァイキング遠征』p82〕、異説の中には、1044年にウラジーミルがヘルソンを手に入れたというものがある。 ウラジーミルはノヴゴロドに聖ソフィア大聖堂を建設した。また、ルカの指示によって石造りの要塞が作られた。聖ソフィア大聖堂は1052年9月14日に祓い清められており、その20日後、子のロスチスラフを残し、1052年10月4日に32歳で死去した。遺体は大聖堂のいずこかに安置された。 1439年、ノヴゴロドの大主教エヴフィミー(ru)は、10月4日をウラジーミルと、近くに埋葬されていた、ウラジーミルの父ヤロスラフの最初の妻のアンナの記憶日と定めた。これはアンナがウラジーミルの母と誤認されたからであるが、聖録は、アンナと、ウラジーミルの母のインゲゲルドの二人の女性を、アンナという修道名を持つイリーナという一人の女性に改変した。 ロシアの系譜学者N.A.バウムガルテン(ru)の説では、ウラジーミルはシュタデンスク伯レオポルドの娘・オダ(ru)と結婚したとされる。しかしA.V.ナザレンコ(ru)は、この説に疑問を呈している〔〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ウラジーミル・ヤロスラヴィチ (ノヴゴロド公)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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